松岡亮二「教育格差」読書感想文

松岡亮二「教育格差」(ちくま新書)を読んだので、感想文を書く。 何についての本かというと、「出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは 収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる(表紙裏の概要より)」という話である。 いやぁ、いい本だった。おすすめである。

何で読んだの

新型コロナウイルスの感染拡大下の2020年4〜6月の生活の感想 - 子供の落書き帳 Renaissanceの中で書いたとおり、4月上旬に出社したときに 「どうせ書店もしばらく閉鎖するだろうし、本も買えなくなる」と思い、帰りに大型書店に寄って本を買った。
閉店間際の紀伊國屋書店で、じっくり選ぶ時間も無いので、新書大賞の特集棚からエイッと決めた。
そう、この本は新書大賞2020で3位に入賞している。
新書大賞|特設ページ|中央公論新社
こういう貧困とか格差とかそういう話が割と好きなんですよね。
自粛期間中に読もうと思ったくせに、読み終わるのに7月下旬までかかったわけだが……

圧倒的なデータによる徹底的な分析、大量の参考文献

表紙裏の概要には 「本書は、戦後から現在までの動向、就学前〜高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を 圧倒的なデータ量で検証。」と書いてある。 その言葉に間違いはない。
印象論を完全に排除して、完璧にデータで押してくる本。 図表とグラフの量がとても多く、他の新書でこの本に比肩するものはだいぶ少ないだろう。
個別の例に関しては存在を認めつつも、あくまで冷静に全体傾向をデータから描き出している。 つまり、以下のような論調である。 「親が学歴が低くて貧しい家であっても、子供が成績が良くて大学まで行った例もあるので、探せば見つかるだろう。だが、親の家庭環境が子どもの学歴や成績に影響するという全体傾向が厳然としてあることは変わらない」

あと参考文献の量が凄い。21ページあります。 「参考文献をしっかり書いている本は良書」が私の持論だが、その通りの結果である。

新書として並外れて分厚い・脚注の量がすごい(325箇所)・参考文献の量がすごい。 総じて新書とは思えないというか、よく新書で出版しようと思ったな、という感想。論文だと思ったほうが良いです。

近い本:中室牧子「学力の経済学」、パットナム「われらの子ども」

私がよく知っている中で近い本(というか引用されてる本)は、中室牧子「学力の経済学」、ロバート・パットナム「われらの子ども」。

中室牧子「学力の経済学」はビジネス書大賞2016年の準大賞を獲得したこともあり、知っている人も多いかもしれない。 (ビジネス書大賞
「教育格差」巻末の謝辞を見ると、松岡亮二と中室牧子とは一緒に研究した関係のようだ。

また、社会関係資本、家庭の階級による子供の違いを(こちらはデータと具体例の両面から)記述したのが、ロバート・パットナムの「われらの子ども」である。こちらは教育に限らずもっと広い範囲を扱っているので、併せて読むと少し違った視点を得られるだろう。
「われらの子ども」すみません……ちょうど1年ほど前に買ったは良いけど、読まずに積みっぱなしです……下の記事でも引き合いに出したけど、相変わらず未読です……だってあまりにもデカくて分厚いんだもの……すみません……

linus-mk.hatenablog.com

私の中学高校と、大学入学式の話

「教育格差」では一部の極端な例を出して格差を実際よりも誇張して大きく見せることを避けて、かなり大きな割合で区切った上で分析をしている。 両親のうち大卒が何人かで3つに切ったり(各分類の割合は25〜40%程度)、偏差値60以上の区分に注目したり(正規分布で上位16%程度)といったところである。

自分自身を振り返ると、明らかに「一部の極端な例」に該当する中学高校生活を送った。
開成中学/高等学校というところに行っていた。
https://kaiseigakuen.jp/career/result-univ/ によれば、 1学年の400人中、現役で東京大学に合格した人は約120人、浪人後に合格する人も含めれば半数弱が東京大学に通うという状況である。
東京大学の入学式は毎年、武道館で行われる。私が入学式に出席した時の細かいことは忘れてしまったが、1つの光景をよく覚えている。
式典の前だか後だったか、自然に開成出身の同級生たちが自然に集まり始めた。 よぉ、お前もか、久しぶり、元気か、などと友人同士が会話を始めるうちに、開成出身の東大新入生はどんどん大きな集団になってきた。
そこに目をつけたテレビ局の人が、「皆さん何してるんですか?撮らせてもらってもいいですか?」と寄ってきた。
武道館の階段に並んで、テレビ局の人の指示に従い、一斉に「ズームイン!」と叫んで、私の大学生活はスタートした。確か、番組の「東大に合格した人にインタビューしました」コーナーの、最初の場面に使われたはずだ。

中高の学校ランク・学校SESと、進学熱・教育熱の関係。私は歌を聞いていたのだ。

「教育格差」の後半では学年が進んで、高校における教育格差を、膨大なデータから論じている。 ここではこの中で、進学校とSESの関係を取り上げる。

SESはsocioeconomic statusの略で、日本語に訳すと「社会経済的地位」である。

まず、「高SES校」と「高ランク校」という概念を整理しよう。
やや乱暴に言うと、
「金持ちの高学歴両親の家庭の子供達が集まっている学校」=「高SES」
「生徒の成績が良い学校」=「高ランク」
である。 そして想像できるかもしれないが、この2つの学校は重なり合っている(pp.202-207)。

だが、この2つの影響をごっちゃにするな、分けて考えろ、と筆者は言う。 すなわち、進学校の人たちは「塾・予備校に通って大学に行く」傾向にあるが、その原因が「生徒の能力(=高ランク)」だけだと考えるのは不適切だという。原因として、「生徒の生まれ(=高SES)」を見落としているからだ。「頭がいいので塾・予備校に通って大学に行く」というのは真実だが、一面の真実でしか無い、と筆者は指摘する。
学校ランク(生徒の学力)などいろいろな影響を除外して分析しても、高SES(生徒の家庭が高学歴高収入であること)だと

  • 大学進学しようと考える人の割合が高い(p.210) *1
  • 塾や予備校に通う人の割合が高い(p.212)
  • 生徒の学習努力量が多い(p.214)

という傾向が分かる。

進学校の生徒は、高学力の影響に加えて、高SESの影響も受けることになる。 筆者の松岡亮二はこれを「教育熱のサウナ」と表現している。

「たとえるなら、進学校は制度的に作り上げられた教育熱のサウナだ。高SES家庭の生徒が集まることで、個人の学力とSESを超えた集合的な特性が学校外で学習機会を得ることを促していると考えられる。 p.212」
「入学後3ヶ月の時点で、高ランク・高SES校の生徒は通塾・予備校通いをはじめる。学校ランクとは別に、学校SESは生徒の通塾・予備校通いを促している。この傾向は、高SES校に通う高SESの生徒に見られる。恵まれた「生まれ」の生徒たちが物理的に同じ場に集められることで、熱が高まると解釈できる。 p.226

私はこれを読んだとき、別の本のことを思い出した。人の生涯の様々な部分を科学的観点から論じた、デイヴィッド・ブルックス「あなたの人生の科学」である。

フィクションの中で、ある女子が「貧困家庭の生徒が勉強するための学校」に入学する。その学校の様子を描写したのが次のシーンだ。

その他、歌う機会が多いということにも驚いた。……(中略)「大学の歌」というのもあった。有名大学の名前を次々にあげ、必ずそのどれかに入学すると誓う歌だ。集会の最後には、体育の教師が生徒たちに問いかける。「君たちはなぜここにいる?」生徒たちは答える。「教育を受けるため!」「君たちは何をする?」「勉強!」「君たちに大事なことは?」「努力!」「それと?」「規律!」「君たちはどこへ行く?」「大学!」「何のため?」「自分の未来を自分で決めるため!」「どうすれば大学に行ける!」「行けるようにすれば行ける!」「不可能はあるか?」「ない!」
(あなたの人生の科学 上 pp.236-237)

最初にこの部分を読んだときに俺は「何だ、この歌wウケるww」と一笑に付していた。 しかし、「教育格差」の上掲部分を読んで、初めて腑に落ちた。

中学高校時代の俺は、この歌を6年間歌って聞きながら過ごしていたのだ!

もちろん、物理的に歌を歌ったわけではない。 が、学校の外でも勉強するのが自然だ、勉強して大学に進学するのが自然だ、という規範意識は、高い学校ランクと高い学校SESを通じて入ってきた。そして俺の身体に染み込んだのだ。俺は「教育熱のサウナ」の中で、この歌を聞きながら過ごしていたのだ。

そして、逆も正しい。 低ランク・低SES校では、(何もしなければ)たぶん俺が開成で聞いたのとは逆の歌が流れている。(何もしなければ)異なる規範意識が浸透していくはずだ。
貧困家庭のための学校では、生徒たちは高SESの恵みを享受することができないから、 「貧困家庭の親が無意識のうちに与えている悪影響を消す(あなたの人生の科学 上 p.230)」ためにこの歌が必要なのだ。初めてこの歌の存在意義が分かった。

とはいえ、どこで差を縮められる?

生まれが良くないというだけで子供の教育の様々な部分に悪い影響があり、最終的に子供の可能性が制限される。それが今の日本で起きていることだ。(日本だけではなく世界各国で同様だ。)
そう言われたら、そういう格差が起きている状況は良くないね、是正したいね、とは確かに思う。  

だがしかし、年収と学業の達成はかなり密接に関係しているのではないか?
以下の論法は異を唱える人はあまりいない気がする。

  • 世の中には、豊かな親と貧しい親、収入の高い親と低い親がいます。(資本主義社会なら必ずそうだろう。)
  • 収入の高い親は、低い親と比べて多くの金を教育費に使えます。(可処分所得が多いのだから、そうだろう。)
  • 親が多くの金を教育費に使い、子供を塾や予備校に行かせると、子供の成績は上がります。(塾講師や家庭教師のバイトをしてたから分かるが、バイトであってもなかなか一生懸命やってるんだから、その学力向上効果が皆無ということは無いだろう。プロの講師ならなおさらである。)
  • したがって、収入の高い親の子供のほうが、上位校に入学できます。(学力による選抜があるのならば、そうだろう。)

……とここまで、至極当然の話ではないか? 一体どの部分に介入すれば、この傾向を解消できるのだ?
だいたいは、低収入の家庭の子供で学習努力量がおなじになるように介入するんだと思うけど、塾や予備校の費用を誰かが出してくれるのか? 誰が何のために?

確かに教育経済学の研究では、子供が小さいうち、生まれてまもなく〜小学校より前のほうが中学高校よりも収益率が高いことが知られている(中室牧子「学力の経済学」pp. 75-82)。じゃあ中学高校になったら無対策で良いのだろうか?
高校受験・大学受験ともなれば、受験産業が存在してるから、高収入の親はガンガン金をつぎ込んで成績上昇に繋げられるはずなのだが?

ふえーーどうすれば現状改善をできるのか分からん。(思考の放棄)

提言

本書の第7章では、筆者から2つの提案がなされている。 その内容は『〈提案1〉分析可能なデータを収集する』『〈提案2〉教職課程で「教育格差」を必修に!』 と、一見すると小粒だ。あれれ、ここまでゴリゴリ分析しまくったのに、教育の制度や政策をこうするべし! って話は出てこないの?
Amazonで「上位の批判的レビュー」を見ると、この点を批判しているレビューが見つかる。 矮小な提案と著者の自己発揚にとどまってしまった しかし、提言のスケールが小さいことを批判するのは早合点だと思う。

本をちゃんと読めば、大きな提案をぶちあげられない理由は分かる。以下2点だ。

安易な政策・制度の提案ができない理由の1つ目。
2つの提案の前に、「最低限踏まえておきたい、まっとうな議論を可能とする4ヵ条(p.257)」をまとめている。以下の通りだ。

  1. 価値・目標・機能の自覚化
  2. 「同じ扱い」だけでは格差を縮小できない現実
  3. 教育制度の選抜機能
  4. データを用いて現状と向き合う

詳しくは本書を参照してほしい。
1番目にあるのが、「価値の相克の中で、どちらに進むのか自覚しよう」という話だ。

価値の相克。 相克とは聞き慣れない言葉だが、

相克(そうこく) 対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E5%85%8B-552269

である。
別の言い方をすれば、あちらを立てればこちらが立たず、トレードオフの状態だ。(具体的にどんなトレードオフなのかはここでは割愛……)

トレードオフがある以上、何らかの対処はトレードオフの上をどちらかに移動するものだから、どちらかが犠牲になるのだ。 対策は利点もあれば欠点もあるものになる。メリット100%の魔法のアイディアは存在しない。
「一つの実践・政策・制度では、どちらかを重視すると、一方を軽視することになる(p.260)」 と本書にもハッキリ書いてあるのだ。
ここまで書いた後に「一見良さそうな実践・政策・制度」を出したら自己矛盾に陥ってしまうだろう! ここを読めば、安易な政策・制度の提案ができない理由が分かるだろう。

安易な政策・制度の提案ができない理由の2つ目。
それは上記の「最低限踏まえておきたい、まっとうな議論を可能とする4ヵ条(p.257)」の4つ目に書いてある。データ不足の問題だ。
本書では、一貫してデータを使って論じてきた。 「こうすればいいよー」という、何らかの方策をポンと書くのは難しくない。 しかし、やった結果としてどのような成果が生まれるのか、それを言えるデータが揃っていないのが現状だからだ。 「言うは易し、行った効果を測定するのは難し」という状況なのだ。
だから「(安易な政策・制度をする前に)まずデータをちゃんと取る体制を作らなきゃ」が提言に来るのだ。
「やった効果測定が困難」なので、土台が整っていないのだから、議論のスタートラインに立てていない状態なのだ。

データの不足と軽視を論じるとき、筆者の舌鋒はひときわ鋭くなっていると思う。それはすなわち現状、教育に関する意思決定をデータに基づかずに実施してきたからである。
今まで実施してきた教育制度の変更(ゆとり教育、高校教育改革など)に対しても 「本来であれば、政策変更前から研究者が分析を前提としたデータ収集計画を立て、(中略)効果検証をすべきだったのに、そういう体制にはなっていない。(p.292)」としている。
現状は「実践と政策のやりっ放しで何がどうなっているのかよくわからない大海原を海図も灯台も方位磁石もないままただひたすらに櫂を漕ぐ状態(p.302)」であると批判する。

しかしこの批判には見覚えがある。中室牧子「学力の経済学」でも見たのだ。ここまで辛辣ではないが、日本のデータが足りないので分析が十分にできず、効果が測定できていない現状を批判している(p137, p158など)。

中室牧子「学力の経済学」が出たのは2015年、松岡亮二が「教育格差」を出版したのは2019年。4年の年月が経っても同じ批判が繰り返されているところを見ると、事態があまり好転していないようだ。

多分日本はデータを軽視する社会な気がするし*2、これからもこの調子で「実践と政策のやりっ放しで何がどうなっているのかよくわからない」なるんでしょうね……(遠い目)

その他で特筆すべきところ

書くのに疲れてきたのでここは箇条書きで……

  • 本書への反論を予想してそこへの答えを書いてくるやつ、最高。「いやこれをちゃんと読み解ける人って高学歴の人が多いんじゃ……このメッセージが届くのは高学歴高SESだけじゃないか」と思っていましたが、「おわりに」で言及があります。

  • 幼児期の時間の使い方を調べる、アネット・ラローの研究。この名前を知ったのは初めてだが、以前読んでたわ。読み返したらマルコム・グラッドウェル「天才!」第5章と「あなたの人生の科学 上」のpp.216-217で出てたわ。

  • 小学校の習い事は学業達成に好ましいもの、高校生のアルバイトは学業達成に好ましくないものと、正反対として扱われているのが気になる。アルバイトは社会への適応・順応という意味もあるし、規律を守る役割もある。小学校の習い事と同様の側面もあると思うが、どうして逆の要因になっているんだろう?

まとめ

オススメです。良い本でした。
この記事では中学高校の話を多く取り上げたが、本書は中学高校の話だけではない。 幼児教育・小学校・中学校・高校と、生まれてから高校までの年代別に章を分けて、徹底的な分析をしています。 データを用いて分析するのが好きな人、教育や格差の話が気になる人は是非読みましょう。

それでは。

*1:これは「進学期待」であって、実際に進学したかどうかでは無い。本当はそれが一番確実な結果ではないかと思うけど、おそらくデータの制約から不可能だったと推察される。大学に行ったか、浪人→大学のルートも考えれば、高校生の集団を数年間追跡調査しなければいけないから。

*2:すみませんこれを立証するデータはありません……個人的な感覚論です……